頑張って続けます

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2019年2冊目 『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー

もうタイトルから溢れ出るただ者ではない「これなに?」感。しかしながら、タイトルのおふざけ感とは逆に、本書の内容は至って科学的に真面目である。

 

全米各地で散見された「エイリアンに誘拐された」と主張する事例を基に、なぜ人は奇妙な主張を信じるに至ったのかについて述べている。本書の中で紹介される事例の数々は突飛で信じ難い経験談ばかりであるが、ひとつひとつ丁寧にかつ科学的に捉えなおす事で、「エイリアンに誘拐された」と主張する人々の特徴やその物語の発生する背景を描き出している。

 

『エイリアンに本当に誘拐されたのか?』という論点を取り扱っている訳ではない。誘拐そのものに客観的な証拠もなく、主張の材料となっているのは誘拐されたという当事者の記憶(主張)のみである。著者もその点については随所に留意を示しつつ、あくまで目的はそれらの主張が為され得るに至った背景である、と繰り返している。

その構造については本書を読んでいただく他ないが、主張の背景を解き明かす過程において、いかに人間の記憶が頼りないものであり外部環境によって変化しやすいかについての解説もなされ、とても勉強になった。

 

わたしは、アブダクションの記憶というのは、空想傾向や、記憶のゆがみや、現在のアメリカ文化のなかで手近にある物語の筋や、入眠時幻覚や、科学の知識の欠如が混ざり合い、催眠による暗示と補強にけしかけられて、できあがったものだと考えるのがもっともわかりやすいと思っている。(p.200)

 

ここでいうアブダクションとはエイリアンによる誘拐を指しており、その誘拐を経験したとする当事者の記憶は、多種多様な外部環境の影響を受け形づくられているといえる。

空想傾向とは、アブダクションの記憶を主張する人達に表れやすい認知の傾向がある事を示唆しており、記憶のゆがみとは、自分が得た情報の情報源が曖昧となりやすい傾向を示している。

この様な性質や傾向をもつ人達が、目は覚めているのに体が動かないという科学的に説明し得る事象を経験したとしても、科学的に説明できるという点で自分の中の恐怖を沈める事はできない。そうした現実での恐怖の解消とともに、人生の意味や自分の居場所を見つけたいという切迫した想いが重なり、科学的に説明できない主張を繰り広げるのである。

そして、科学や技術を重視する風潮が強くなった当時のアメリカ社会において大衆へと広まっていった「エイリアン」という存在が、解消しえない恐怖感や自己肯定の表現方法として選ばれたのである。

エイリアンの存在を否定し切る事はできない。つまり、科学の手から逃れ得る主張であるとともに、当事者としては納得ができ、自らの存在に対しても特別感を演出できる。そんな心の叫びが「エイリアンに誘拐された」という主張だ。

この様な言説を前に、「科学的でない」という主張はもはや何の意味もない。だからこそ、本書の最後において著者はこう述べている。

 

わたしたちは、科学や技術が幅をきかせ、伝統的な宗教が批判される時代に生きている。天使や神に宇宙服を着せ、エイリアンとして登場させたら納得がいくのではないだろうか?(pp.222-223)

 

2019年1冊目 『創造の方法学』高根正昭

タイトルに記載の「方法学」の通り、本書は研究や調査を行う上での方法論を論じたものである。単にテーマに関する調査を行い知識を得るだけでなく、『何の為に』『どの様に』テーマを論じていくか、研究や調査に対する姿勢を学ぶ事ができる。

 

本書の刊行は1979年となっており、なんと40年程前に発刊された事になる。そんな半世紀前に近い歴史をもつ本書の内容についてだが、現在でも通用する内容となっている事が驚きである。ある特定のテーマについて論じた内容ではなく、思考の基礎訓練となる方法論を論じた本である事を差し引いても、本書が現在も通用する内容を維持している点には驚きを隠しえない。

更にもっと驚いた内容がある。著者である高根氏は、スタンフォード大学での非常に厳しい訓練を通じて方法論の重要性を身に付けていった訳であるが、高根氏が留学していた時期はおそらく今から50年程前、アメリカでは既に方法論の重要性と創造に対する責任が学生たちへ求められていたのである。本書の内容だけ(当然、学力層に対する選別はあるとしても)を基に比較すると、現在の日本の大学で本書のレベルで学習を行っている大学は少ないであろう。

また、本書を執筆する機会となった経緯も、高根氏が日本の大学で教鞭をとることとなり、その際に方法論を学ぶ教科書が無い事に憂い、自身が執筆するに至ったとの事であった。

 

とても丁寧な論理展開と説明が行われており、高校生年齢でも十分に読み解く事は可能であると感じるので、大学生はもちろんですが、高校生へもお勧めしたいと感じる書籍であった。

 

『グリーフケアー見送る人の悲しみを癒すー〜「ひだまりの会」の軌跡〜』

葬儀社である公益社とその関係者が遺族の心のケアについて述べた本である。章構成としては全体で3章あり、1章を坂口氏(関西学院大学人間福祉学部准教授)がグリーフケアの基礎知識について解説、2章は公益社グリーフケア活動である「ひだまりの会」について事例紹介、3章を古内氏(公益社代表取締役社長(2011年当時))が葬儀のあり方についてまとめている。


「ひだまりの会」に携わった方のストーリーも含めて記述してくれているので、想像しやすくとても読みやすい。グリーフケアについて知るきっかけの本としては優れていると思う。


遺族の心のケアと称してしまうと、逝去後のケアのみに焦点が絞られがちであるが、そうではないという。近年、病院での看取りが多くなっており、「ひだまりの会」スタッフである方のご家族も病院で息を引き取った。その経験の中で、病状を専門用語だらけで話されたり、摘出した臓器を唐突に見せられたらなど、死と闘う最中に病院関係者から受けた心の傷もあった。その様な心の傷を増やさないこともグリーフケアの一環だと述べている。


病院との連携の中で、エンゼルケアやエンバーミングなども取り入れられている。エンバーミングは遺体の修復により、生前の元気な姿をもう一度取り戻すことを指している。この過程を経ることで、遺族が「死の受容」につながるという。また、終末期医療の影響で薬剤などが投与された状態になっており、病原菌の繁殖等も懸念されている。エンバーミングでは、遺体を無菌状態へ近づける為、たとえ終末期医療で酷使された身体であったとしても、安心して最後のお別れを告げられるという。

病院との関わりに戻すと、病院での遺体の処置としては、エンゼルケアという死化粧などが行われているという。しかし、医療関係者自身も遺体の専門家ではない為、公益社の方が医療機関でセミナーを開いている。

また、遺族への死亡の説明の仕方としても、「早口で話さない、ゆっくり動く、大きくうなずく、足元をそろえる、両手を体の前でそろえる」(p197)といったことも伝えている。


悲嘆を分かち合い心を癒すことだけかと考えていたが、悲嘆を少なくすることも大事なのだと改めて感じた。

合間合間に挟まれる「ひだまりの会」での葬儀事例は胸打つものがある。生前の様子を想像し、その人にあった葬儀ができる、そのこと自体が最大のグリーフケアであり、その実行に向けての活動は驚くばかりだ。詳細は本書をお読みいただきたいが、「ここまでするのか!」という感想をもつであろう。


『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

タイトルを見ただけではどの様な本か想像できなかったが、一読後、「なるほどな」という気分になる。

『親は子を救うために「心の病」になる』パターンが多いと思っていたが、そうではないようだ。『子が親を救うために「心の病」になる』のだ。

 

著者の論理の前提として、社会に適応していくための心の機能を「心理システム」と呼び、その構築には当然ながらお母さんの影響が多大であるとのことだ。

したがって、親子の関係性により「心の病」の病態も大きく異なる。大別すると下記の3つとなる。

 

(1) 普通の親子関係で育った子

(2) 虐待を受けて育った子

(3) 特殊な親子関係で育った子

 

これらのケース分類を前提に、著者の臨床経験から具体例を細かにあげている。余談ではあるが、小説を読んでいる様な気分にさせられる程、一つ一つの臨床例に心をうたれる。

 

脳機能や精神の障害を伴った引きこもりはなどとは異なり、子が親の辛い生き方を引き継いだために起こる不登校や引きこもりを「社会的引きこもり」と定義する。

「引き継いだために…」とは、親が我慢をしてきた人生だと我慢しない自分の子を許せず、自分の子にも自分と同じように我慢を求めてしまい、親が感じていた苦しみを子が引き継ぐということだ。そして、子どもは親の苦しみを背負い「心の病」となるのだ。

 

なんとも悲しいストーリーであるが、「辛い生き方を背負っているとその怒りの部分だけが強くなって、他の穏やかな感情が相対的に抑制されてしまう」(p106)。上にあげた事例は、普通の(1)親子関係で育った子が「心の病」を背負う過程である。

 

(2)虐待を受けて育った家庭では、事態はさらに複雑となる。虐待を行ってしまう親は子供時代に虐待を受けて育った割合が高い。そして、虐待から生き抜くために「善と悪が逆になる」のだ。

自分が生き抜くことは「善」で、自分を虐待する親は「悪」である。しかし「善」を実行するためには「悪」に耐えるしかない。したがって、「悪に耐えることが善」となってしまう。そしてこの連鎖は、親→子・親→子となり引き継がれてしまう。

 

最後に(3)特殊な親子関係についてであるが、一例として、親が発達障害等で子に社会的に価値が共有されている「愛」「お金」「賞賛」等を伝えておらず、子はその成長過程で普通の人たちと価値の共有が出来なくなり、自分が社会から取り残されている感覚になる。そして、生きてはいるもののどこにも「社会的な存在感」が満たされないのである。

 

タイトルのプロセスはこのように捉えられた。

不登校などの問題はその実行者である子のみに原因が転嫁されやすいが、その背景には当然家庭環境や親子関係が潜んでいるのである。当たり前だが、丹念なカウンセリング記録を基に読み解くと、新しい発見の様に感じてしまうので驚きだ。

『子どもの睡眠』神山潤

睡眠が子ども(特に乳幼児)もたらす影響について簡潔に書かれた本。


100ページ足らずで図も多く、スキマ時間に読める様に構成されたいる。想定する読者としては、初めての子育てに悩むお母さん方であろう。文体もとても暖かく、素直に受け入れられる。


あくまで睡眠は個人的要因が大きいと前置きしつつも、遅寝遅起きがもたらす悪影響について述べている。よく言われる話ではあるが、人間の体内時計は25時間であり、地球の24時間とはズレが生じるので、朝起きて光を浴びて体内時計をリセットすることの重要性を述べている。その根拠として、新生児の睡眠表を持ち出しているのは面白い。


新生児の1日ごとの睡眠を表にして見ていくと、入眠時間が少しずつ遅くなっている。これをフリーランといい、人間の体内時計がズレていることから生じる現象らしい。新生児たちは自分の体内時計を生まれた世界の時計に合わせる為、日々奮闘しているというのだ。だから、夜泣きするからといって夜に光を浴びせたり、昼寝が多いからといって暗い部屋で過ごしたりしてはいけないというのである。この世界の1日のリズムを体得している修行中といえよう。


なぜ光が睡眠に関係するかというと、メラトニンの分泌に影響しているとのことだ。メラトニンは光によって分泌が抑えられる為、夜間に明るいところにいると分泌が抑えられてしまう。したがって、日中は光の中で過ごし、夜は暗い中で入眠体制に入ることができれば、メラトニンは夜間にしっかりと分泌される。こうすることで、メラトニンがもつ抗酸化作用(老化防止作用)やリズム調整作用等がうまく機能するのである。本書自体が2003年発行で研究として最先端とは言えないが、子どもの睡眠を研究している三池氏の編著書である『不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するー』(2009)にも同様の記述が見られる。


では、睡眠が具体的にどの様な影響を与えるかについてであるが、著者はセロトニンの分泌に注目している。セロトニン神経伝達物質であり、分泌障害が起きると精神的に不安定な状態となる。事実、うつ病患者へセロトニンを高める薬が出されている。

セロトニンはリズミカルな筋肉運動によって分泌されるとのことである。遅寝遅起きで日中の活動が抑制されると、リズムを調整するメラトニンと精神安定に関わるセロトニンの分泌が抑えられてしまい、攻撃性が高まったり不安に襲われたりしてしまう。あくまで著者の推論であると明記されていることは付言しておく。


証拠に基づいた論理展開は本書の趣旨とは離れているのであろうが、限られた紙面の中で睡眠についてわかりやすく述べてくれている。

『心からのごめんなさいへ』品川裕香

本書が刊行された後に発覚した事件を考えると、なんとも言えない哀しさが読後に残る。

「何が正しかったのか」や「どうすれば良いのか」なんてことは、やはり自分自身の頭で考えねばならない。

 

なんとも意味深な出だしで書き始めたが、本書は宇治少年院で少年たちを指導する法務教官たちを取材し書かれたものだ。

そして、本書において主役の様な立ち位置で描かれる法務教官の向井氏は、2009年に少年たちへ暴力行為をはたらいたとして逮捕されている。この事実自体は読む前から知ってはいたものの、読書中は、いや、向井氏の少年たちに対する情熱に触れている間は、目頭が熱くなるばかりであった。

 

法務省:法務教官区分,法務教官区分(社会人)

 

少年院に来た子どもたちに対する様々なアプローチが随所に示されている。緊張感を纏った筆致ではあるが、向井氏をはじめとする法務教官の思いを述べる場面、インタビューを受けてくれた少年たちへの思いが述べられている場面など、筆者の品川氏自身の暖かさが本書を通底している。

院へ来る子どもの多くが複数のことを同時に処理することが苦手なので、教官たちは「一つひとつの説明をイチイチ区切りながら伝える。一つの指示ごとにお手本を示す」(p20)のである。一連の動作を小さく区切り、その区切りごとに実際に見せながら指導することを、スモールステップという。

また宇治少年院に入院した子のインタビューの中に、「(前略)何か失敗したらすぐに、わかりやすく、やってみせながら教えてくれるのがいいのかもしれない」(p56)といった言葉もみられる。

「自分にも将来があるとわかっていなかった」(p57)という少年も、「自分でいろいろと考えることもできるようになってきて、"このままだったらずっと注意されっぱなし"だと思うようになった」(p57)という。

別の少年は、「(前略)ましてこれまでの自分を反省し、被害者のことを思い、先のことを真剣に考えるなんて……どうやったらそんなことを考えられるのか、その考え方すら、正直言ってわからなかったんです」(p88)と述べる。

そのような少年たちが、振り返れば「筋が通っていて納得のいくことしか言っていなかった」(p91)教官たちに信頼を置いていたのだ。そしてこう締める。「信頼できる大人は、親の代わりにだってなれると思うんです。そのことを僕は少年院で学びました」(p103)。

 

最近、教育業界では「発達障害」が取りざたされており、名前のみが先行的に広まってしまい、単なるレッテル張りとなっている現状があるという。発達障害と似た様な症状を示す少年たちは、直接原因ではないが統計的な関連を表す非行リスクに囲まれた環境の中にいる。それらをつぶさに分析しなければ、少年院を出た後の自立にはつながらない。そしてそのような個別具体的な支援を行う為に、個別処遇計画が存在している。

 

ここには書ききれない程の濃い内容がぎっしり詰まっている……。特別支援教育も個別指導計画といったその子に応じた教育計画の策定も行っているが、全日制学校ではそこまでのきめ細かいサポートはできていないのが現実だ。

目で見て覚えるのが得意な子、聞いて覚えるのが得意な子、体を動かして覚えるのが得意な子、それぞれの生徒にそれぞれの特性があり、その特性に基づき計画を立てるのが本来の教育であるべきと考える。

また、職員のモデリング効果についても言及している。少年たちが日々触れ合う職員がモデルになる以上、服装の乱れへも意識を高める活動を行っている。

 

このように、示唆に富む内容がこれでもかという程詰められている。これからもっともっと勉強していって、自分なりの答えを出していくしかない。がんばろう。

『戦略思考トレーニング』鈴木貴博

クイズ形式で楽しく読めたけれど、思考力のなさに震える。南無阿弥陀仏じゃこれは。

タイトルに掲げられた戦略思考というには大げさかもしれないなとは思う。

基本的には事例紹介と捉えて軽く読んでもいいのだろうけれど、このレベルの考え方を基礎の基礎として頭に叩き込んでいくことが大事かもしれない。

ということで、クイズの答えが頭から抜けたところで再読予定。

通勤電車で立ちながら読んでしまっていたので、単に知ってるよ〜という雑学レベルの知識定着していない。

今の僕にとっては、この本は家で紙とペンを用意して座りながら読む本だろう。